2003-11-21

対称性、特に繰り返しの危険なところは、それが深く考えるかわりに使われてしまい得るという点だ。

"ものつくりのセンス" を読み直し, ぎくりとする. 最近よく人生の戦略立案におけるメタレベルとそこに対する資源の分布について考えており, そこである再帰性を仮定するとエレガントな近似ができるとひそかに喜んでいた. それに釘をさす一言.

晩飯関数

さて, 人生(中略)のメタレベルが意味するところは字面のとおり. とれないバグの原因や今日の晩飯など, 具体的なあれこれについての考えを低いメタレベルであるとし, 考えが抽象的になるほどメタレベルがあがる. 晩飯の例では, たとえば. 今夜何を食べるかという考えを仮にメタレベル 0 としよう. すると, なぜ自分がそれを食べたいのか, あるいは晩飯を選ぶ基準をどうしようか(予算, 栄養...) などと考えるのがメタレベル 1 となる. さらに, 自分の晩飯の嗜好はどうやって決まっているのか, あるいはそもそも晩飯について深く考える事に意義はあるのか, などと考えるメタレベルを 2 ... などとすることができる.

私は時々, なぜ(上の例でいえば)たかが晩飯ごときのためにここまで悩まなければいけないのかと腹立たしくなることがある. ある日の晩飯を決めるためだけに, 晩飯の意義に関する抽象的な思考で時間を無駄にするのは馬鹿馬鹿しい. 一方で抽象度の高い思索は今日のためだけのものではないかもしれない. そこで, 考え事において各メタレベルにどれだけの資源(時間)を費すかが問題になる : どう頭を使えばもっとも良い晩飯にありつけるか, 資源の分配に関する最適化問題だ.

各メタレベル i に費す資源 r_i からなるベクトルを R としよう. メタレベルは理論上いくらでも高くすることができるから, R は無限長を持つ. 利益 P を R の関数 f(R) とする. これが議論の出発点になる. P を最大化するには, 本来ならまず f を知りたいところだ. しかし f を求めるのは極めて困難であるように思える. なぜなら f は(例えば)晩飯の真理とでも言うべき存在で, これが簡単に求まるものなら外食産業はとっくに dominant な状態へ収束しているはずだ. したがって, f の近似を求めるのが現実的だろう.

そこでまず, 鍵となる考察がある:

任意の i について r_{i+1} < r_i (1)

つまり, メタレベルが高いほどその考えに費す時間は短い. この条件は, 例外はあれどほぼ成り立つと考えて良いだろう. ここでもうひとつ, 今度はあまり自明でない仮定を導入する:

任意の i, j について r_i / r_{i+1} = r_j / r_{j+1} ( > 1 ) (2)

つまり, 隣接するメタレベル間では投資の比が常に等しい. しかし, あるメタレベルを特別視しないならばさほど突飛な仮定ではないだろう.

この二つの仮定をもちいると, R はこの比率, 隣接メタレベル資源比(Nighboring Meta-level Resource Ratio, NMRR) だけで表現することができ, また f の近似 g を NMRR 値 n の関数 g(n) とみなすことができるようになる. これまで二次元だった探索空間を一次元に減次することができた. 我々は n を調整することで最適な晩飯に近づくことができる. あとは体を張って各 g(x) ( x \in n )を評価していけばよい. 理想の晩飯生活は近い.

迂闊な再帰

と, いうような事を考えていた. まさに再帰性を "深く考えるかわりに使" った典型と言えるだろう. 自分の安直さを恥じた. (メタレベルが離散値だったりスカラだったり, 自分の思考を制御できると考えているあたりで既に無茶なのですが.)